コラム

グローバル時代の教育について考える

諏訪康雄 法政大学名誉教授


 

第6回 自分はグローバル人材か?

グローバルな環境におかれて生育し、仕事をすれば、否応なしにグローバルな経験をたくさん積む。日常的に多様な人々と交流し、必要に応じて多言語も使いこなすようになる。ヨーロッパの小国にはこうした人材がたくさんいる。ある国がそうした環境下におかれるかどうかが、その国のグローバル人材の質量を決定する。

 

だが、はるか先の未来ならばともかく、現在の日本はこのような環境にない。そして、人々の考え方は2種類に分かれている。一方は、グローバル化に積極的に対応することが日本の未来に重要だと考える。他方は、グローバル化には消極的で、そんな焦りこそが禁物だと考える。

 

前者はグローバルな最前線に接している人々に、そして後者はそこから後方に身をおく人々に、多い。グローバル人材論への反応も、根はここら辺から、つまり仕事や生活をめぐる現実の環境とニーズの差異から、生じる。

 

最前線で苦労する人々は、日々の業務にすでに困難をきたしているので、グローバル人材の不足を焦り、何とかしなければと切歯扼腕する。現地でのコミュニケーション能力不足で致命的なミスや辛い思いをし、語学力の充実を痛感する。だから、小学校からの英語教育の必要性にも、前向きとなる。オランダの大学教授が、日本人の書く英文の悲惨さを嘆きながら、「言語の近い僕だって、小学校1年で毎週12時間の英語教育をされたから、何とかなってるんだよ」といっていたのを忘れられない。シンポジウムに提出した筆者らの英語論文を見てくれた直後だったので、いたく赤面した。

 

だが、後方に身をおく人々は違う。グローバル化はどこか他人事である。だから、これまでどおり慣れ親しんだ母国の言語、文化、風土にどっぷりつかっていたいし、それだけでも奥が深いと確信する。当然、中途半端なグローバル化対応には反発だ。基本的に、自分らの仕事と生活はグローバル化とは無関係だし、そうあり続けてほしい、と思うからであろうか。

 

ほんらいグローバル化の最前線であるはずの大学をみても、後者の消極派が多い。日本の圧倒的多数の大学は、外国人の同僚が少なく、海外分校を持たず、教員にとって外国語で講義をしたり、執筆したりすることは必須でない。海外提携校との交流も、一部の人に頼り切りだ。最近では、海外留学にさえ消極的な教員がずいぶん増えた。

 

その結果、将来的に仕事で外国語を用いた知識吸収や議論や発表や執筆が必要となるかもしれない学生たちに対しても、ともかく日本的な発想と議論こそが大事なんだとばかりに、ただただ日本語で講義し、日本語の本や論文ばかりを読ませ、日本語のレポートを書かせ続ける。

 

生徒・学生のグローバル教育を問題にする場合は、それを論じる自分にも、問いかけてみる必要がある。自分はグローバル人材か、と。多くの教員はそうでない。せいぜい、現実の必要性、緊急性に応じて仕方なく、応急のグローバル対応をするだけである(恥ずかしながら、筆者もその1人)。

 

したがって、愚者は自分の経験に学び、賢者は他人のそれに学ぶ(ビスマルク)というけれども、圧倒的に貧しい自分たちのグローバル経験だけに学んで発想しているだけでは、どうしようもできない。若者たちが近未来におかれる国際社会と、そこで必要になる能力開発への想像力と気づきが教員側にないならば、所詮、北欧やベルギー、オランダ、スイス、シンガポールのような小国の苦労と経験は他人ごとであり、韓国の懸命な努力とその成果もアラを探すばかりとなって、およそ理解しようという気を起こさない。

 

さて、あなたは、自分をグローバル対応が可能な人材だ、と思っていますか。

 

2013年9月16日掲載

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