雄勝中の卒業式当日、東日本大震災
石巻市雄勝町は仙台の東南東、車で1時間半くらいのところにあります。リアス式海岸の入り組んだ地形で、基幹産業はウニやホタテなどの水産業、さらに日本最大の硯の産地でもあります。600年以上の伝統を持つ法印神楽もあり、自然、伝統文化、歴史等に恵まれたとても良い環境の土地でした。
雄勝中は雄勝湾の一番入り組んだところにあり、道路を挟んだ向かいに雄勝小学校、峠を越えたところに船越中学校と3つの学校があります。東日本大震災では3校すべてが津波にのまれ、最も被害の大きかった学校の一つと言われています。
震災当日は雄勝中の卒業式でした。心のこもった卒業式にしようと連日連夜、皆で準備をして、私自身も人生初のピースサインをしながら子供たちと一緒に写真を撮ったのが午後1時。その1時間46分後に地震が来て、集合写真を撮った体育館はまるごと持っていかれました。津波は3階建ての校舎の屋上をも超え、学校は廃墟と化し、雄勝の町は完全に消えました。子供たちは全員が下校していましたので、私たち教員は山の中に車で逃げました。翌朝、町の光景を初めて見たときには、呆然と立ち尽くしたまま言葉が出てこず、「とにかく子供たちが生きていてほしい」と願うだけでした。
私たちが逃げた山のところには13人の生徒たちが避難してきていて、寒く長い時間を一緒に過ごしました。震災当日はもちろん食料はありませんでしたが、翌日は、山の中で流されなかった家の方から味噌とおにぎりを分けていただき、とにかく子供たちに食べさせるようにしていました。
安否確認
3日目の朝、子供たちの安否確認を進めるため、私は一度山から降りて町に出ることを決意しました。このとき、地域の中に、1本の道が造られつつある光景を目にしました。周りから遮断されている状況を何とか改善しようと、地域の方々が重機を動かし、自分たちで道を作っていたのです。多くの人が山に避難していたので、二次避難のための道路は必須でした。
とにかく安否確認を進めていかなければということで、私たちは手書きの名簿を作ります。このときに、「本当に何もかもがなくなったのだ」とつくづく思ったことを今でも思い出します。一人の女性教員が全生徒の名前を覚えていたので、これが安否確認を進めていく唯一のデータになりました。私は3日目に5時間かけて職員と一緒に山を脱出したあと、雄勝地域の大勢の方々が避難している体育館の目の前にある教室を拠点とし、ここに一人で寝泊まりしながら、生徒の安否確認を続けました。眠れない日々が続きました。
全員生きていた! 学校教育は、この子たちに何ができるのか
8日目の7時6分、「全員生きていた」という知らせが入ります。この惨状の中で一人も欠けることなく全員が助かった。本当に奇跡でした。「やっと眠れる」という安堵と、「全員が助かった!」という歓喜が押し寄せた後は、「この惨状を生き延びた子供たちに学校教育は今後何をしてあげられるのか」という気持ちになって、悶々と一晩を過ごしました。
そして夜中の3時、真っ暗な中で「雄勝中学校77名、全員無事確認」という模造紙を窓に貼り出しました。夜が明け始めると、避難している地域の方々がぽつぽつと集まり、この紙を見て拍手を送ってくれました。明日をどう生きられるかすらわからない状況の中で、少なくとも子供たちは全員生きていた。これは闇の中に一点の光を見るような気持ちだったと思います。地域の方々が「本当によかった」と言って話をしてくれた光景は、生涯忘れられません。
この光景を目にし、「とにかくこの状況で学校教育ができることを、とことんやってみよう。自分が今まで学んできたこと、積み上げてきた人とのつながり、すべてを注いで子供たちを支えていこう」という覚悟が決まり、行動を始めました。
道路もまだ寸断されている状況でしたので、すぐに全員を集めることはできませんでしたが、集まれる子供たちとは集合日に一緒に炊き出しをしながら過ごしていました。この過程でも、ここではとても話しきれない、さまざまなストーリーがありました。
「たくましく生きよ」を校訓に新生雄勝中学校をスタート
私は雄勝中学校の再開に際して、「再生ではなく新生なのだ。新たな学校を作っていこう」と考えました。学校はすべてなくなった。そして今まではあまりにも教育に贅肉が付きすぎていたのではないか。この贅肉を一つひとつそぎ落とすのは大変なことだけど、私たちはすでに全部がなくなってしまったのだから、逆に「ここから始めよう」という感覚で、子供たちに寄り添いながら、何が本当に求められているものかを自分たちできちんと整理しながら進めていこう、という方針でスタートします。
30年来の校訓も変えて新たな校訓を設置し、学校教育目標も変えました。職員会議も止めました。学校を再開できる場所が決まるまでの40日間は、怒濤のような日々を過ごしました。
高校の4階を借り、51名での再スタート。被災前の卒業式の式辞の最後に言ったメッセージ、「たくましく生きよ」を校訓にしました。制服は全員流されていたので、着の身着のままでの入学式を行いました。
「感謝・誇りと自信」を取り戻す「復興輪太鼓」プロジェクト始動
4月から6月にかけては、さまざまな方の力をお借りしてやってきました。ただし7月からは自分たちで歩いていこうと考えていました。この時は、本来はまだ「食べるものすらどうしようか」という時期でしたから、「自分で歩く」というのは無理な話なんです。しかし卒業式を終えた卒業生に関しては、私はもう何もしてあげることができず、とにかく3年生の教育に力を入れなければいけないと考えました。彼らは8カ月後には受験して高校に入り、被災していない子と一緒に人生を歩んでいくことになるわけです。彼らがたくましく生きていくための力をどうやって付けてあげられるか。
そういう想いで、7月からは大きく2本の柱を立てました。1つめの柱は「感謝・誇りと自信」です。私たちはさまざまな方々から支援をいただき、それに対する感謝の気持ちを持つのは当然のことです。しかしいただいた支援に対して、「ありがとう」という言葉しか言えない、もしくは校歌を歌って返すことしかできない、それだけでは子供たちが可哀想です。子供たちに誇りと自信を取り戻させるという想いのもと、「復興輪太鼓」プロジェクトを始めました。
太鼓に関しては、古タイヤを集めて、皆で荷造りテープを貼りました。バチには100円ショップで買った麺棒を使い、6月8日に初打ちを行いました。全員が太鼓の叩き方を知っているわけではありません。太鼓に初めて触る子もいますし、リズム感もさまざまです。そのような状況の中ですが、全員がこの太鼓にはまっていきます。
勉強できる場所=「たく塾」を作る
もう一つの柱は「学力保証」です。被災した生徒にも、被災前と同様に学力は付けていかねばならない。そこで、 “たくましく生きる”という校訓から名付けた「たく塾」を開始しました。
「たく塾」の意図は次の通りです。避難所や仮設住宅暮らしだと、勉強する場所はありません。子供たちは、特に受験を控えた3年生は、勉強できないことをとても不安に思っています。そこで学力向上と心のケアを兼ね、夏休み中にも校内で勉強する場と時間を確保できるようにしました。サポートは学生ボランティアの方々にお願いしました。私は、「単に1〜2日間来て、『1+1=2』と教えるようなサポートはいらない。なぜ今子供たちがこういう状況の中で勉強をしなければいけないのかを、実際に被災地に入り、わかったうえで関わってほしい」と話しました。学生たちは想いを汲んでくれ、必死になって生徒を見てくれました。「ボランティアとは人のためではなく自分のために行う活動だ」とも言われていますが、彼ら彼女らは、ボランティアをすることによって、本当に大きく成長して帰って行きました。相互に成長する機会になったと感じています。「たく塾」はその後、土曜日や平日にも行う形で拡大していきます。
学校に来る1日の間に部活と勉強をして、お昼ご飯はみんなで一緒に食べ、最後は太鼓を叩いて帰る。仮設住宅に住み、間借りの学校に住み、支援された服を着て、もらった学用品で勉強しているという、すべてが自分のものではない生活の中で、子供たちは古タイヤに自分の名前を書き、一人ひとりが自分のマイタイヤを持って、それぞれの想いをぶつけていきました。その集中力はものすごく、6月8日の初打ちを聞いた時に、私は、「これは何かが生まれる。すごいものになる」と思いました。
地域と共に学校再建を考える
同時に私は、地域の方と一緒に「新たな学校をどう再建するのか」という目標に取り組み始めました。本来は行政や教育委員会がするべきことですが、もっと地域が主体になって、新たな学校づくりをめざしたいと考えたのです。漁業関係者や硯組合の理事長さんなど、町の復興に向けて中心になって動いている方々に「学校再建に向けてこういう会を作りたい」と話したところ、快諾していただきました。
とはいえ町の復興に関する現実はかなり厳しく、先日の新聞では、住民の7割が「戻らない・戻りたくない」というようなことも掲載され、本当に大変な状況なのですが、学校について語りながら「将来の地域をどう創るか」という話をすると、夢や理想を絡めながら話ができる。そういう会を続けてやっています。
「雄勝」スタイルのキャリア教育をめざして
このあとはキャリア教育について話をいたします。教育目標として2本の柱を立てたことを先ほど申し上げましたが、もう1つ、「子供たちの将来の夢や希望を、この津波被害によって立ち切りたくない」という想いも途中から強くなっていました。実は被災地こそキャリア教育が必要なのではないか。自分はこれからどんな職業について、どのように生きていくかといったことを話し合う場や時間が必要なのではないか。そう考え始めました。
ただ、子供たちはすでに地域を離れており(※)、積み上げた財産も家もすべて失い、親さえもどうしていいかわからない状態にありました。(※新校舎は西へ約15kmの「石巻北高校飯野川校校舎」)
そのような中で私は、4月20日に入学式を終え、その後3日目の保護者会で、「修学旅行を凍結します。積み立てて頂いたお金は全部お返しします」と宣言しました。皆が現金を必要とする状況だったからです。一方で「絶対に修学旅行には連れて行くぞ」という想いは強く持っていました。どのような形で修学旅行を実現できるか、さまざまな情報収集や働きかけをしていくなかで、文科省やキャリア教育コーディネーターの方が動いてくださり、「修学旅行と職場体験を何とか提供できるかもしれない」という話をいただきました。授業時間の確保だけでも大変な状況でしたが、こうした中でも、新たな視点を持って修学旅行や職場体験を行えることを願っていましたので、これは素晴らしい好機だと感じ、推進していくことになります。
町の復興を担う子供たちにどんな力を付けるか、ということを考えて、狙いを持ったキャリア教育を進めようと考えました。めざすところは大きく2点ありました。「俯瞰的ものの見方の獲得」と「内発を刺激する経験」です。
今までは自分たちの地域しか見ていなかったのですが、これからは広い全体を見て「俯瞰的なものの見方」を持つような子に育ってほしい。この狙いを実現するため、いろんな特色のある地域との連携を図っていくことになりました。 また、職場体験については地域の教育資源がなくなったので、逆転の発想で思い切って首都圏に行く、ということで取り組みました。
東京駅で復興輪太鼓演奏
6月8日に初打ちをして、夏休み中は血豆を作りながら練習した復興輪太鼓が、さまざまなご縁を引き寄せてくれました。まずは11月に東京駅での演奏機会をいただくことができました。復元された東京駅の屋根に雄勝石が使われているというご縁があり、「東京駅で打たせてほしい」と提案申し上げたところ駅長さんに快諾いただき、文部科学省さんのイベントと絡めて、東京駅までの旅費を捻出し、演奏会が実現できました。5〜600名の方に来ていただきました。そして、この演奏を聞いて非常に感動してくださった方から、「ぜひドイツで演奏を」という話をいただき、古タイヤを使ったこの輪太鼓はドイツまでの空を飛ぶことにもなりました。
11月の東京駅での太鼓演奏が終わった次の日から、1・2年生は資生堂とNHKを訪れ、「伝える力」というテーマを持って職場体験を行いました。これについては、「継続性、発展性」が重要なポイントになりますので、資生堂さん側にもNHKさん側にもメリットがなければいけません。両社からは後ほど「プログラムを考えた若手社員が、自分たちの職業観や会社観を再度見直す良い機会になった」という評価をいただきました。
京都の中学生の力も借りてユニークな修学旅行を実現
3年生の修学旅行はとても面白い取り組みでした。京都に行くことになったのですが、私どもでプログラムを立てて検討している時間がなかったため、京都の中学生がプランニングをしてくれました。総合的な学習の時間を使って自分たちで一生懸命計画を立てるので、彼らにとっても地域を再発見する機会になったようです。挙がったプランは地域の方も見に来る文化祭で発表して、人気投票を行い、上位に選ばれた4つのプランを当校の4グループが実際に京都を訪れて町を歩き、帰った後に評価をする、というやりとりが旅行前に行われました。
宿泊に関しては、お金がないため、できるだけホームステイさせていただく形をとりました。そのような中で「14歳で自分の生きる道を決めた」という舞妓さんの話を聞いたりして、非常に刺激を受けました。「高校の出口を考える」ということで、京都大学でのセミナーを受けさせていただくという貴重な体験もでき、私は日本一の修学旅行だったと思っています。
お世話になった、交流した中学校には、20人の3年生が行き、「800人の観客を圧倒する」という気概をもって、輪太鼓演奏をさせていただきました。その後、1月には企業の方や大学関係者を招き、生徒がパネラーになって「雄勝教育フォーラム」というものも開催しました。このときに、これまで私たちが行ったことに対する評価や次年度の計画を立てるということをしたわけです。その中で、生徒たちから「自分たちが東京に行く時には、地域の特産品をもっと売り込みたい。東京駅で太鼓を打たせていただいた後に、硯などの雄勝のいろんな特産物を売れないか」という提案が出て、アピールしてみたところ、昨年7月に東京駅でのミニアンテナショップ構想が実現しました。
この経験をエネルギーに変えて、道を切り開いて生きていくキャリア教育を
雄勝は、「消えゆく町」と報道されるくらい復興が難しい状況にあります。そのような中で学校のあり方を考える会を立ち上げ、なんとか地域の復興を担う学校として再建したい。そのためには魅力的で個性的な学校作りをしなければいけない。そこで目指したのが、先ほど申し上げた「雄勝スタイル」という形になります。何もなくなったのですから、他の学校と同じものを作り上げることはもちろんできません。そういう状況の中で、学校再生をめざしているところです。
私が住んでいたところも、今は更地になっています。ただ更地になっているだけで、復興は遅々として進んでいません。町の中にはそういう風景しかなく、置き去りにされたような状況なのです。本当にここに子供たちの笑顔が戻ってくるのかと思いながら、なんとか戻したいと考えています。雄勝がこれまで培ってきた伝統や文化を築いていくのは子供たちですし、子供たちが戻らなければ、雄勝の未来はないんです。1人でも多くの子供たちの笑顔を、あの地に戻したいと今、思っています。
今回被災したことが、子供たちにとってハンディになったり、コンプレックスになったりするのではなく、この経験をエネルギーに変えて、前に向かって力強く歩んでほしいとつくづく思います。あの子たちが将来どう道を切り開いて生きていくのかを考えるキャリア教育、その学びの場が、今必要ではないかと思っております。
※動画(文部科学省)