「社会人基礎力」は、職場や地域社会の中で多様な人々とともに仕事を行っていく上で必要な基礎的な能力として経済産業省が提唱している概念で、「前に踏み出す力」「考え抜く力」「チームで働く力」の3つの能力、およびこれらを構成する12の能力要素が示されています。職場や地域社会の中で多様な人々とともに仕事を行っていく上では、基礎学力や専門知識のみならず、それらを『発揮する』ための能力・行動力を身につけていくことが必要です。社会人基礎力とは、このような「行動を実行に移すのに必要な基本的な能力」であり、コンピューターで例えるとソフトウェアを動かすのに必要なOSに位置する力であると考えられます。
社会人基礎力に類似する考えとして、人間力、メタコンピタンシー、状況対応力等様々な言葉が挙げられますが、社会人基礎力とこれら概念との違いを考えてみますと、まず一点目は、社会人基礎力が、企業等の現場で若者の成長と向き合ってきた方々の意見を踏まえながら実務的な視点をベースとして取り上げた点。もう一点は、益々変化する21世紀の社会環境、意識の多様化、個の自律意識、人間関係の希薄化などの今日的な社会状況をしっかりととらえ、そのような環境の中で自律的に仕事を進めるための基礎的な力をとりあげた点に特長があると考えています。
平成17年(2005年)に社会人基礎力の重要性が提起され、その力の育成に向け、多様な教育カリキュラムが高等教育機関で実施に移されはじめてほぼ10年が経ちました。
今回実施した『社会人基礎力を育成する授業30選』においても、全国の多様な大学から189件もの応募が集まり、その一つ一つに、各大学が学生を鍛えあげ、社会に送り出していこうとする努力や工夫の凝らされた取組みが紹介されました。まずは、各大学・先生方の日々の努力に敬意を表させていただくと共に、このような取組みが大学教育の日常にしっかりと浸透・定着し、カリキュラム内にとどまることなく、社会に出ても学生が力を発揮していくことに大きな期待を感じています。
一方で、今回の審査会を通じて感じた懸念材料もありました。今後益々広がっていくべき社会人基礎力の育成が、効果的に若者育成の現場に根付くことを願って、本稿ではその懸念の内容についても言及をさせていただきます。
私が懸念しているのは、「社会人基礎力の一人歩き」です。
抽象的な言葉を使いましたが、社会人基礎力を育成する授業が広がりを見せる中で、提起された社会人基礎力の12の要素を所与のものとし、それをあらゆる環境に対応している能力ととらえ、「定型的」なプロセスを設定し、「標準的」な行動記述/能力要件を定義し、「画一的」にその評価とフィードバックを行う。審査において、このような傾向が生じていることを感じる場面もありました。このような教育活動の定型化・標準化・画一化が、私が懸念する「社会人基礎力の一人歩き」です。
今改めて申し上げると、社会人基礎力育成の原点は、「自分の力で考え、選択し、行動する」ことにあります。自分が直面している状況を自分の力で認識し、その状況に対する自分の対応能力の棚卸しを行い、どのような能力を発揮することがより有効なのか、また欠けている力に関しては、どのようにその力を開発していくのかを、当事者意識をもって学生自身が取組まなければなりません。主体的に考え、行動することを通じてこそ、若者達は社会に出てから直面するリアリティショックを乗り越え、活躍していく力を身につけることができるのです。
社会人基礎力の育成は、学生個々人が向き合う環境と成長のダイナミックな関係性作りであり、そこでは一人一人によって異なる能動的対処が生まれてくるものです。キャリア教育においては丹念にこのような個々人の社会人基礎力の発揮に向き合うことが必要であると思います。
また、組織としてのユニークかつ多様な教育方法も必要であると考えます。大学における建学の精神、企業でいうところのミッションやビジョンは、組織毎にそれぞれ異なり、どのような人材を社会に送りだし、そのためにはどのようなカリキュラムの運用を計るかという点では、各大学の特性が出てきて当然であると考えます。
社会人基礎力の原点回帰に必要不可欠であると考え、全国に取組事例を発信・共有する『社会人基礎力を育成する授業30選』受賞校の選考においては、特に「学生の能動性」、そして「大学の特性を活かしたカリキュラムづくり」に注目して審査を行いました。
「社会人基礎力」は、今後のさらなる取組みの拡大に向けて、ここで一度原点に戻ってそのカリキュラムや運用、特に社会で活躍していく力を育成する上で有効に機能するかどうかという視点から見つめなおすべき段階にきているのではないでしょうか。
社会人基礎力の育成においては、唯一のベストモデルというものは存在しえません。
これからの大学教育が、学生それぞれの特性に見合った「学生自身の主体的な気づき」をきめ細やかに促す機能を強化していくこと、また、それぞれの大学の原点となる特性と整合性を保ちながら真に教育効果の高い社会人基礎力の育成プログラムへと進化すること、さらに、こうした教育が大学教育の日常に深く定着していくことを心から期待しています。
社会人基礎力育成の好事例の普及に関する検討委員会 委員長
慶応義塾大学 総合政策学部教授 花田 光世