Special Interview

長年工夫したボトムアップ型教授法が、

「社会人基礎力」の概念につながっていた

諏訪康雄 法政大学大学院政策創造研究科教授


諏訪康雄先生による、大学教育での社会人基礎力育成のススメ

大学教員自身にも必要な社会人基礎力

昔から学校の三大目標は知育・体育・徳育だと言われてきました。知育は学力、体育は体力、徳育は道徳となります。最後の徳育に着目すると、社会に出て力を発揮していくのに重要なポイント、つまり社会人としての基盤となる能力の育成が含まれるでしょう。まさしく「社会人基礎力」です。道徳を議論すると、イデオロギーが入ってすぐ大喧嘩になったりしますが、「社会人基礎力」と言えば、どんな立場の人でも、これが備わった人たちとならぜひ一緒に仕事したいけれど、逆にかなり欠けている人とは一緒に仕事したくないなどと、意見はほぼ同じところに落ち着くと思います。

 

「こういう概念は、言われてみれば当たり前のことなのに、われわれ教員に一番欠けているねぇ」と、「社会人基礎力」の説明を聞いた大学教員たちがよく自嘲し、学生もそんな厳しい指摘をします。専門知識が一定水準なければ大学教員にはなれず、「考え抜く力」が特に秀でていれば他の要素は多少欠落していても通用するといった職業だからでしょう。学部から大学院までずっと一定の専門教育を受け続け、また自分もそれを繰り返すような教育をしているので、真面目な教員であればあるほど、学生にも専門学力ばかりを求めがちです。けれども学生は、専門性につながる仕事に就く場合ばかりでないし、実務でそんなに考え抜くことが必要になるとも思っているわけではありません。実際、社会で重視されるのは、まず前に踏み出すこととか、皆と協力して働くこととかのようです。調査するとこれらが大差なく1位、2位にきて、かなり落ちて「考え抜く力」が必要とされています。ですから、大学教員は教員になった瞬間から既に世の中の傾向とは相当にギャップがある状態に置かれ、それが長年の大学生活でさらに大きくなっているようです。

 

こう言うと、「それなら、『社会人基礎力』さえあれば、学者としての能力がなくてもいいのか」といった批判がすぐ出てきます。でも、ちょっと見当はずれな反論ではないでしょうか。専門職である以上、一定の専門的な能力が必要なことは当然です。ただし、専門能力だけがあれば十分かというとそうではなく、その上で大学教員にも「社会人基礎力」がないと、教え手としてうまく学生を掌握できないと指摘しているだけです。大学教員も教師である以上は、相応の「社会人基礎力」がないと務まらないはずの職業です。少なくとも社会で部下を上手に育てている企業の課長さんなどと同じくらいの力は必要でしょう。

 

「社会人基礎力」は、いわば社会の健全な常識です。でも残念ながら、それを忘れている大学教員が少なくありません。例えば、マイクを使って話すのはめんどうでしゃべりづらいものですが、マイクは自分のために使うのではなく、聞き手の聞きやすさのために存在します。なのに「自分はマイクが嫌いだから使わない」とか、使い方に意を払わない教員をときおり見かけます。そんな人が大教室でマイクを使いこなさずにボソボソしゃべると、端の方の学生には全く聞こえない。これではどんなに内容が立派でも、誰のための、何のための講義かわからないですね。

失敗も多いが、試行錯誤すれば成長も大きい

私自身、なかなか達成できませんでしたが、学生たちがよい授業を受けたと少しでも思えるようにしたいと願い、30年以上、試行錯誤しました。

 

若い頃に試みたのは、まず一定の解を示して理解させ、それを応用して自分なりに解かせ、その後に学生たちと問答をするといったやり方でした。講義でも選択肢の形で問いかけ、正解と思うものに手を挙げさせ、なぜそう思ったかを幾人かに言わせるという、いわばトップダウン型で教えていました。でも今は、最低限の解説や注意のみとし、それ以外はできるだけ素材を与えて、自分たちなりに料理してごらんという、ボトムアップ型になってきました。学生たちがすぐに成功することはまれで、失敗が大部分ですが、状況を学生たちと一緒に確認した後で、なぜ出した答えが失敗作で、なぜそうなってしまったのかとか、なぜ別の解が成功であり、もっと成功するにはどうしたらいいのかなどを、検討していくやり方に変えました。ゼミだけでなく、講義でもできるだけそうするようになりました。

 

このように変わった理由は二つあります。まず、トップダウン型では思ったほどの効果(学生の知的成長や判断力など)が上がりませんでした。正しいかどうかの判定基準がいつも教員から出されるので、これでは学生がいつしか教祖様にすがるようなパターンになりがちです。教える側も正解をすぐに理解したり、応用したりできない学生にいらいらしてきて、学生との関係が難しくなったりすることもありました。

 

もう一つは、自分自身が学習してきたプロセスを素直に振り返ってみると、それはトップダウンで正解を与えられて成長したというよりも、自分なりに試行錯誤しながらの方が大きいことでした。それに気付いたところから、授業に対する考え方が変わりました。学習主導者、教育者として引っ張っていくのではなく、一緒になって伴走しながら学生を支援していくコーチ型のスタイルに移っていきました。その過程でいろいろ試しながら授業テクニックも高まっていったように感じています。こうして行き着いたものの一つが、「社会人基礎力」のような発想でした。「社会人基礎力」という命名ラベルこそ貼っていなかったのですが、まさに少しずつ「社会人基礎力」につながる教育方法を探ってきたのだ、と思います。

多くを教え込まず、チームを組ませると、学生は自分で考え始める

チームで小課題にむかう
チームで小課題にむかう

トップダウン型からボトムアップ型に変わったときの私の一番大きな変化は、多くを教えないようにした、ということです。以前は最新の理論、つまり「正解」をたくさん教え込んで、これでもかこれでもかとたたみかけていました。でも今は、「ここだけは時代を超えてもまず揺るがないだろう」という基本的部分と、「次に進むにはツールとして何がいるか」という手法はそれなりに教えますが、後は自分であれこれ考えて工夫しながらやりなさい、という姿勢に変わりました。もっとも、ただ放っておくと、できる人はどんどん進むけれども、できない人は諦めて何もしなくなる恐れがあります。そこで次には、チームを作って相互に刺激し合ったり、工夫し合ったり、教え合ったりしながら課題を解かせるというやり方を工夫しました。チームで協力しながらの学習継続です。


チームは固定しません。私のゼミでは、当面の小課題を解いたらチームは解散し、また次の小課題向けに再編をします。すると、いやなヤツだとか気が合わない人と思っていても、チームを組んで成果を出さないとチーム対抗戦で負けてしまうから、おのずとチームとして力を出すためにはどうしたらよいかを考えるようになります。さらに、いろいろな人と組むことで、グループワークの基本を学べます。その意味で、他流試合も有益でした。他の大学やゼミと交流すると、優秀な人もいれば、有名大学の学生であっても自分よりダメそうな人もいるわけで、自分たちもそこそこやれるね、と思ったりする。よくできる学生も上には上があることを知ったりします。こういう体験をすることで、壁を取り払ったり、抜け道を探し出したりする、課題解決の応用力が高まるのではないでしょうか。


とはいえ、こうした教室運営の試行錯誤をすることで、教員である自分自身の「社会人基礎力」がむしろ上がったのかな、とも感じています。

社会人基礎力の言葉で背中を押してあげると、学生は自分で伸びていく

グループワーク
グループワーク

授業にあたって、学生に初めから「『社会人基礎力』はこうですから、身に付けましょうね」とは、まず言いません。でも途中で「皆さんは前よりここが伸びたけど、こちらは伸びていない。どうしてだろうか」などと話し合うことはします。


「社会人基礎力」には、永年苦労して初めて身に付くもの、つまり一定の時間とエネルギーを使わないと無理な部分と、そんなに苦労しなくてもあっという間に伸びる部分があります。


例えば「傾聴力」はかなり後者ですね。ちょっと黙って聞いてポイントをつかむ練習をすれば、たちどころにヒアリングの対応技術は上がる。そうした能力を身に付けることの意味に気付かせ、スキルの側面をアドバイスすれば、ずいぶん伸びます。だんだんに要約能力も高まり、ヒアリングを使う調査もうまくいって、勉強がいっそう楽しくなる。


逆に、「創造力」や「ストレスコントロール力」などは、時間のかかるものです。しかも教室内だけではとても無理で、自分なりにやり続けないといけないから、学習をめぐる本人の意識と習慣が大事です。しかも、これがまだ弱い学生は多いですから、学習を継続させるには、放任しっぱなしで、ただ一人で勝手にやらせるようにはしない。学習を継続する共同の場を与えることが教員の役割のようです。例えば、一定のテーマを教員から与え、それをめぐり学生同士でも調べるし、議論もする。さらに教員が加わって検討していく。そうすると、共同した勉強のプロセスで、一人ひとりがいろいろな気付きを得ます。学問上の気付き、ジェネリック・スキル上の気付き、場合によって現地調査などでは体力が付いたりもします。そこで「前は解けなかった問題を今は解けるね。アカデミック・スキルでも、こういうところが伸びたんだよ」と示すと、学生もうれしくなってさらに成長していきます。これらはしばしば、言わないとわからない。グループワークなどで学生たちが堂々めぐりになり、そろそろステージを一つ引き上げた方がいいかな、というところで、今やっていることはどういうことなのか、どんな力が付いたのか、ということを学生に考えるきっかけを与えると、さらに高次な点に自分たちで気付くようになります。


どんなところが伸びたのだろうかと議論するとき、学生の中から出てこなかったら、「例えば柔軟性という側面ではどうだろうか」と聞いてみると、「言われてみれば、今までは自分の意見が批判されるとすぐムッとして口もききたくなかったけれど、最近は、なるほど他人はそういう考え方なのかといったん受け止めて、それからどう反論するかを考えている」と自分自身で発見したりします。その結果、学生は自分なりに勉強するようになる。特に教え込まなくても、予想以上のことを自分たちで学び取るようになるのを見るのは、いつでも感動的です。


今年卒業した学部ゼミの学生が書いてくれた意見で一番感動したのは、「大学に入って、こんなにも学ぶことが楽しくなるとは思ってもみませんでした」(男子学生)というものでした。また、昨年の卒業生では「“チームで学ぶこと”、私がゼミで学んだことの中で一番これからも大切にしていきたいことです。一人の力ではなく、人と意見を交わし、悩み、一緒に答えを出したり、作業を進めたりしていくことがいかに大切なことか、学ぶことが多いかを実体験させていただきました」(女子学生)というのもありました。教師冥利に尽きますね。トップダウンでやっているときは、こういった反応は出てきませんでした。

教える側も学ぶ側も、自分の個性に合わせて社会人基礎力を伸ばし、頼られる人間に

誰にでも合う教育というのは、よほど基礎的なものでない限り、まずないと思います。教育はいろいろな意味で個別的・個性的なもので、まるでジャズのセッションのようだ、というのが私の実感です。トップダウン型でいくのか、ボトムアップ型がいいのか。たくさん教えるのがいいのか、基礎的な重要なものだけを丁寧にしっかりと身に付けさせるのがいいのか。それらは教育の場や脈絡に合わせた、実地観察に基づく優先順位付けの問題です。その判断軸を決めるのは教員の個性や経験と、教員が見ている学生の特色なので、どれかが決定的によいということではないでしょう。どれも意味があると思うので、時と場合に応じ、それぞれ試みて、より効果が上がった、つまり、学生が成長したり、学習意欲や習慣を高めたりしたという意味で、うまくいった方でやればいいのではないかと考えます。


誰もが同じようにやれるかというと、これも、そうではないと思います。アクションラーニングを形だけ真似すれば、スキルだからある程度まではできるでしょうが、全員が全員うまくいくわけでもない。それぞれの人の持ち味がありますから。ただ、世界の一流学者を見ていると、教え方がうまい人はけっこう多いですね。以前、若手の大学院生や助手が将来的によい大学教育者になれるかをどこで見抜くかという議論を、各国の研究者仲間としたことがあります。そこで異口同音となった結論は、内輪の勉強会や小規模な研究会でうまい報告をする人は、だいたいよい教育者になるということでした。プロが聞いてもわかりづらい報告をするような人は、相当に努力しないと、普通の人、つまり学生がわかるように話せるようにはなれません。ここら辺に目を付けて育てれば、また自ら学んでいけば、きっとよい大学教員になります。よい報告をする人はもともと研究内容もよいわけですから、仕事も一流で、結果的に教育も一流になる可能性が大きいのだろうと思います。

 

二度とない人生の中で自分なりに活躍するための基礎を学生時代に付ける上で、専門的な知識や技術・技能だけでなく、「社会人基礎力」といった側面にも意識を払うことが不可欠です。「社会人基礎力」は全てに満点を目指すようなものではないけれど、社会に出て周囲とそれなりの信頼関係を結びつつ仕事をしていこうとすると、「社会人基礎力」を構成する諸要素がある程度ないと、まずいことにもなりかねません。


例えば、周囲の人から信頼されるのはどういう人かと言えば、それなりに自分から前に踏み出し、指示待ちでない人でしょう。マニュアル人間ではなくて、自分なりに考えて工夫する人こそ、同僚や部下にいてほしいからです。また、一匹オオカミでは困りもので、「ホウレンソウ(報告・連絡・相談)」ができて、それなりに仲間と協調してやってくれないと困るね、ということになります。もし「社会人基礎力」の3つの力、12の能力要素の中で足りない部分があったら、そこは時間をかけてそれなりの水準にしていけばいい。不足部分だって、気付きと意識的な努力があれば、徐々に改善されていくものです。時には周囲と対立してしまうようなことがあっても、全体としては共同行動ができる人であれば、仲間に受け入れられると思います。


常日頃、学生たちに伝えているのは、たった一つ。小難しい理屈をあまり考えずに、ともかく周囲から信頼され、またあの人と一緒に仕事がしたいと言われる人間を目指したら、それだけでいい、と。誰をモデルにしたらいいんですかと問われたら、一緒に仕事して気持ちよかった人や、あの人とまた作業をやりたいと思った人を、それがなぜなんだろうと意識してみて、自分にもそういう要素があるならばぜひ伸ばし、足りなければそれを身に付けるための工夫を少しずつしていけばいい、とアドバイスしています。


「社会人基礎力」は、生涯を通じて、それぞれの年代や地位や役割ごとに、より高いものが要求されていく性質であると思います。だからこそ、ちょっとずつでいいのです。もうこれでいいといった完成形は、永遠にないのですから。

運営:リベルタス・コンサルティング

 (協力:河合塾)

 

 

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