諏訪康雄先生 法政大学名誉教授
経済産業省が2006年から提唱する『社会人基礎力』の研究にあたり、経済産業省の私的研究会である『社会人基礎力に関する研究会』の座長として活躍。現在は同じく経済産業省の『我が国産業における人材力強化に向けた研究会』の『必要な人材像とキャリア構築支援に向けた検討ワーキング・グループ(人材像WG)』の座長として、人生100年時代に個人が人材として付加価値を生み続けるキャリア構築のための社会人基礎力の見直しの中心的な役割りを果たしている。
温故知新の不易流行
今回の話の導入として、『温故知新の不易流行』ということを上げておきましょう。「温故知新」とは、昔のことを勉強すると今の時代に通用することがわかる、ということ。「不易流行」も同じような意味です。これは芭蕉が言われたことですが、俳句というのは新しいものを追いかけているけれど、その中の本質的なものは変わらないというほどの意味です。
そこで、まずソクラテスは、紀元前4世紀、今から2千数百年前の哲人ですが、こんなことを言っています。「人間の自然本性は、経験のない事柄の技術を得るほどには強くない」と。
一回読んだだけでは、何を言っているのかわからないのですが、要するに「人間はやったことのないことはできない」という意味です。ピアノを弾いたことのない子はピアノを弾けないし、野球をやったことのない子に野球ができるわけがないという、当たり前のことを言っています。これは、今ふうに考えれば、「我々は経験から学習をする」、あるいは、「経験と学習を通じて初めて、個別の人間的能力を発揮できるようになる」ということになるでしょう。
ソクラテスは『経験と学習』の他に、もう一つ、こんなことも言っています。
「少しのことをよく仕上げることの方が、たくさんのことを不十分にしか仕上げないことよりも優れている」。つまり、何でも屋になっても、結果的には満足のいく状況にはならない。ある問題を徹底的にやることによって、初めて他の人に卓越する能力を獲得する、ということです。これは、最近の言葉で言えば『選択と集中』ですね。人生の時間もエネルギーも限られているので、私たちはすべてのことにたくさんの時間をかけることはできません。ですから、いくつかのことに絞って従事しながら、人生を送ります。そして、その絞ったものを相当程度突っ込んで行うことによって、初めて他の人から認められるようになります。いわば、「選択と集中」による専門性の確保が大事である、という教えです。ソクラテスは今から2千数百年前に、すでにそのように言っているのです。
もう少し時代を下って、トマス・アクィナスという人がいます。この人は、西洋社会に大きな影響を与えた神学者です。今でも「新トミズム(ネオトミズム:Neo-Thomism)」という形で、彼の考え方の基本が強い影響力を持っています。彼が13世紀に書いた本の中で、「各人は互いに他の者の助けを受け合い、それぞれ理性を働かせて、ある人は医学を、他の人は何か別のものを、というふうに異なった仕事を見つけ出して、それに従事する」と述べています。
つまり、何事も一人で全部はできませんから、結局自分に向いている仕事を探し出してそれに従事し、他のことは他の人にやっていただいて、お互いに補完し、助け合うのだと。これは一言で言えば、「分業と協業」ですね。一人ひとりが自分に与えられた仕事をしっかりやるようにし、他の人とコラボレーションをしていくことが重要だ、と説いております。
ここまでが今日の話の基本です。第一に「経験と学習」が大事ということ。それから「選択と集中」、誰もが大学に進学するときにすべての学部に行くわけにいきませんから。そして社会に出て働くときに、一人で全部の業務はできませんから「分業」の一端だけを担い、みんなと力を合わせる「協業・コラボレーション」を進めることによって社会は円滑に動いていくという基本の確認をしました。
10年先がどうなるかわからない社会を生きる
その上で話の流れは三つです。最初が「霧のかなたに広がる未来」です。
これから社会がどうなるか、実はよくわからないのですね。例えば、世界で大活躍しているGoogleやFacebook、Twitterなどといった企業は、ほんの20年前には姿も形もなかったのが、ここ10数年の間に急成長して、今や世界を圧倒的な影響力の下に置く存在になりました。すなわち我々は、たった10数年先の時代を予想することでさえも難しいのです。もし現在の状況を予想できる人がいて、10数年前にGoogleやAmazonの株を買っていたら、今はすごいことになっていますよね。
このように、世の中の変化が激しくなると、先を見ることが難しくなります。速いスピードで走っている車の窓から、通り過ぎる景色をつぶさに見ていくのは極めて難しいのと同じです。そこで、四つの視点で見て行きましょう。まず、仕事の未来像が揺れているということ。すると当然、人材の未来像も揺れています。そして今、働き方改革が行われていますが、そこで提起されている問題を少し考えてみましょう。さらに変化の時代の職業能力という基本になる問題についても考えてみましょう。これらが前半になります。
その次に、こうした変化する仕事の世界に対して、個人と組織と社会がどのような準備をすべきか、という話をします。そのうちでも、最近よく言われるのが『人生100年時代』です。これは、皆さんのお子さん方の半分くらいが、可能性として100歳以上まで生きるだろう、ということです。つまり、21世紀を超えて22世紀まで生き抜くことになります。ですから、60歳で定年を迎えたら、例えば109歳まで生きる人はあと49年間も人生があるのです。このように長くなった人生の中で、個人と組織と社会はこの現実にどう対応するか、という問題が突き付けられています。
そういう中で、私は「生涯学習を続けられる能力」が非常に重要になってくると思います。現在でも、若き日の学校教育だけで60歳、あるいは65歳まで社会における仕事を続けることは、極めて難しい時代になっていますが、もし70歳、80歳まで働くという時代がやってきたら、変化に対応する能力がもっと必要になります。そのためには、勉強をし続けることが苦痛でないような習慣づけが大事になってきます。こうした問題に関して、中等教育や高等教育でどのように対応すべきか、という問題についてお話しします。
そして最後に、保護者の皆さんとしてはどんな心掛けが必要なのだろうかということもお話しします。私の子どもはとうに社会人になっていますが、反省することばかりでした。そういうものも踏まえて論じてみたいと思います。
これまでの仕事・これからの仕事
まず、子どもたちの将来にどんな仕事が待っているかということを簡単にお話しします。
第二次世界大戦が1945年に終わって10年後の1955年、今からたった63年前には、日本で働いている人たちの半分以上が、小さなお店を開いたり、農家や漁業をしたりという自営業の人たちと、その家族の従事者でした。サラリーマン型で働く人は45%弱しかいませんでした。ですから、「日本は昔からサラリーマン社会だった」と思っている人もいますが、あり得ないわけです。その後、高度成長の中でサラリーマンがどんどん増えて、今は9割をちょっと切るくらいになっています。この数字は、先進国はほとんど同じです。南欧などの一部で、まだ70%前後の国もありますが、大部分の先進国は80~90%が雇用されて働く人による社会です。我々はこれを「雇用社会」と呼びますが、戦後の日本は自営業社会から雇用社会へと進んできたのでした。
雇用社会では当然、雇用という就業形態を中心にものを考えるので、社会もそれに沿っていろんな制度を整備してきました。どこの国でも、「より望ましい組織、つまりしっかりとした会社や役所に入って、そこで働いて生活を成り立たせるということがすばらしい」という考え方が強くなりました。それに合わせて、いい学校に行かなくてはならないとか、現場で必要な勉強をしなければいけない、という考え方になってきました。
自営業の時代では、子どもが「学校に行きたい」と言っても「百姓に学問なんか要らない」とか「店屋の商売をするのに学校に行って何の役に立つ」というような考え方も幅を利かせていましたが、誰もが雇用されて働くようになってくると、学校教育というものが非常に重要になってきます。そのために受験戦争なども起きてきたわけです。
ところが、こうして苦労して入った会社の寿命は結構短いのです。確かに、一部上場の大企業だけをとれば20年、30年かそれ以上の40年ほどですが、会社の平均寿命は無限ではありません。ごく普通の会社を例にとれば、だいたい10数年です。ですから今後、もし20歳頃から80歳まで働くという時代になると、普通の人にとっては、否応なしに会社を3、4度は変わらざるを得ない、という事態も起きるようになります。
ではベンチャービジネスはどうかというと、もっとすごいことになります。先ほどお話ししたように、うまくいけば素晴らしいことになりますが、そうでなければ、だいたい3年で約半数が消えています。新規開業は5年で9割がたたまれます。一時期もてはやされた企業も、いつまでも続くとは限りません。最近も、錚々たる大電機会社が経営を危なくしたり、都市銀行がつぶれてしまったり、あるいは技術力を売りにしていた電機会社が海外の会社の子会社になったり、といったことが次々起きています。これからも、このようなことがますます起きていくだろうと思います。
仕事の未来像がゆれている
ここで基本に返って、仕事というものはどういうところに発生するか、考えてみましょう。
まず、人々が一定のモノやサービスを欲しいと思ったとします。その欲しいものを提供すれば、そこに産業が生まれます。その産業活動を担うのは組織・会社です。さらにその組織の仕事をするために、労働力を提供するのが個人です。したがって、我々個人の思いばかりを中心に時代の先の労働を見通すのは、極めて難しいわけですね。
例えば、私が和文タイピストだったとします。必死になって努力をして、そして見事な腕前になったとしても、パソコンワープロの登場で、その市場価値はどれほどのものとなったでしょうか。あるいは、江戸時代の終わりに、もし駕籠舁(かごかき)のチャンピオンになった人がいたとしても、その後汽車が現れ、自動車が現れたことで、仕事の世界そのものが消えてしまいました。今ある仕事の多くもこの和文タイプや駕籠舁と同じ運命になりかねないのです。
このように、モノやサービスの在り方が変われば会社も変わり、会社が変われば、我々が働くときに要求される能力も変わってきます。労働能力を提供する個人は、時代の変化に応じたいろいろなことを望まれる立場にあります。我々は個人で独立してすべてのことをできるわけではありませんから、おのずと多くは組織に所属することになりますが、そこには極めて不透明、不安定な要素があります。
例えば、皆がゲームをやるようになったので、ゲームは産業として発達し、今やゲームクリエイターは子どもに人気の職業の一つになっています。対戦型ゲームのプロさえも生まれてきました。でも、こんな職業はほんの何十年か前は、地球上のどこにも存在していませんでしたし、大人がゲームを作りたいなどと言うだけで、「そんなことをやって!」と言われたものです。漫画の始まりの頃に、手塚治虫さんが人に隠れて描いていた、という話がありますが、それと一緒で、最初に始めるというのは、本当に大変で、その後どうなるか、仕事の先行きはわからないものなのです。
情報通信技術が発展することで知識情報社会化が起き、さらにグローバル化が進展していくと、これにうまく乗れた企業、地域、産業とそうでないものとの間に大きな差が開いていきます。例えばカリフォルニアのシリコンバレーは、この前まで辺鄙な田舎の人里離れた場所でした。スターバックスで有名なシアトルは、ビル・ゲイツが生まれ育った町であったため、マイクロソフトが本社をシアトルに移転したり、アマゾンやボーイング社があったりで、すっかり有名になった街ですが、つい半世紀くらい前までは、ぱっとしない田舎町と思われていたそうです。ICTの時代の変化にうまく乗ることによって産業が発展し、人々が集まり、企業が活発に行動し、集積し、さらに世界から人が集まるようになってきたわけです。