変わりゆく仕事、その準備

~人生100年時代を生きる子どもたちに必要な力をどのように育てるか

諏訪康雄先生 法政大学名誉教授

 

第2回 仕事の現場に人工知能がやって来る時代

仕事の未来で皆さんが興味のあるのは、おそらくAIとロボティクス、すなわち人工知能とロボット化が職業の世界をどう変えていくか、ということでしょう。しかし、正直これはわからない。おそらく40、50年の間には大きく変えるだろうと思いますが、5年や10年でどれくらい変わるかと言えば、これはわかるようでよくわかりません。しかし、すでに大手銀行は合計して3万人分以上の仕事をロボットに置き換えるとか、駅前に以前のように支店を置く必要がなくなってきたなどと言われています。

 

それどころか、新しいIT技術を使うことによって、金融の世界に他の業界から企業が次々と乗り込んできていて、銀行業は残るにしても、従来型の銀行自体の存続は危なくなってきています。地方銀行などは、さらにそれが苦しい状況になっていると指摘されています。

 

 

日本では、金融業界は非常に安定した業界ですばらしいところだと見られてきましたが、実は国際的に見れば、転職者の多い業界のひとつです。例えば、デンマーク・コペンハーゲン大学、これはデンマークの最高峰の大学ですが、そこを卒業した金融エリートのスティーン・ヤコブセンさん(デンマークの投資銀行サクソバンクのチーフエコノミスト)は、大学卒業後24年間で9社も経験しています。1社に3年も勤めていないのですね。日本の金融がこうした状況になるかどうかは分かりませんが、国際的な競争の中では、多かれ少なかれ似たような状況が現れるかもしれません。

 

また、人間の仕事がAIやロボットにどれくらい置き換えられるか、ということについては、いろいろな人が研究論文を出しています。読んでみますと、だいたい3割くらいというおとなしい人から、9割くらいという非常に大胆な人までばらばらで、平均を取ればだいたい5割ということになります。オックスフォード大学と野村総研が行った研究では、今の日本人がしている仕事の49%がロボットとAIの組み合わせによって代替されるだろう、と言っています。

 

そうすると人間が対応すべき仕事はどうなるのだろう、ということになりますね。それについては、創造的な業務、あるいは人間でしかできないような「おもてなし」のような情緒的な業務という人が多いです。しかし私は、一番多いのは、AIやロボットを使いこなして、その上で機械化できない人間的な能力を発揮する、という仕事になるだろうと思います。コンピュータやスマホが出てきたときがそうだったように、最初は期待先行でしょうが、いずれ落ち着くものです。同じようなことがAIやロボットについても起きてくるだろう、と。そのように考えると、AIやロボットを怖がらずに上手に使いこなせる能力を持つ人や、AIやロボットを使いこなした上で、人間ならではの仕事ぶりのできる人が望ましい、ということになるでしょう。このことは多くの人が指摘しています。では、具体的にそれは何なのですかと言われると、なかなかはっきりとは断言できない部分があります。

 

人材の未来像もゆれている

そうなると、人材の未来像もゆらぎます。一昔前までは、人材の未来像とは、何でもできるトップクラスの人からそうでない人まで、まるで相撲番付のように一列に並ぶような発想がありました。したがって、大学なども偏差値順に並ぶと、みんな何となく納得できるのです。でもこれからの時代は、そのような完璧人間の最大多数化はおそらくないだろうと思います。なぜならば、仕事の現場にAIやロボットが、また少子高齢化の社会となって外国人労働者が今よりもたくさん入ってくるようになると、金太郎飴的な同質の人間の集合体を前提にした組織は立ち行かなくなり、多様な人才(人間としての才能)に対応する組織こそが望まれるようになるだろうと思われるからです。

しかも、先ほど言ったような何でもできるそこそこの人間というのは、コンビニエンスストアのようなものです。つまり、何でもちょっとずつあるのだけど、ちょっと一つ先のものを探そうとすると、いくらコンビニが密集していても、どの店にも置いていない。それと同様の人間では、今のようにコンピュータで調べれば何でもすぐにわかる時代では必要ないということになります。クイズ王のような生き字引タイプである必要は全くないし、むしろ、そんなことに力を注ぐことは別の能力を育てそこねるのでかえって損をすることにもなりかねないと思います。

 

では、どんな人材が求められるかというと、「ダイバーシティすなわち才能の多様化」です。いろいろな人々が、いろいろな資質や特性に合わせて、得意技を持ち、お互いに助け合い、補完しあう。先ほどのトマス・アクィナスの言うところの「分業と協業」の姿が、もっとはっきりと出てくるだろうと思います。

 

多様化というのは、スポーツの世界を見てもわかりますよね。オリンピックも、昔なら誰も知らないし、見ないようなマイナーなスポーツがどんどん前に出てきて、そうした競技で活躍する選手があちこちに出現しました。昔はスポーツと言えば野球一辺倒でしたが、その後サッカーが出たり、ラグビーがこれほどの人気を誇ったり、テニスが出てきたり、カーリングが人気を呼ぶというように、大きく変わってきています。

 

その多様性の中で、仕事の世界で職種はどれくらいあるのかということは、実は誰もよくわかっていません。まじめに数えても、どんどん古い仕事がなくなり新しい仕事が生まれ、また消えていきます。

 

それでもざっくり数えて、職種がだいたい1万くらいはあると言われています。そして、そのうちの500ちょっとの仕事で我々の9割がご飯を食べています。一方、我々の資質からすると、一人の人が10や20の仕事は問題なく対応できると言われています。つまり、実は仕事は1万とか500いくつの中から選ぶわけではなくて、自分に向いていそうな10か20くらいの職種の中から、業種も考慮に入れながら選択と集中をしていくということになるのです。

 

多様な職種では多様な職業能力が求められます。そして、それらの職種では人材像・能力像は必ずしも一つではありません。例えば、相撲取りとサッカー選手、あるいはバレリーナ、卓球の選手、音楽家、画家…と見ていくと、人物像を一元的に見るということは、ほとんど不可能と思われます。

 

そして、異なる能力や資質を持ちながら、自分の仕事にしっかり専念して、特技のある人たちが集まり合うと、ダイバーシティの真の効果が表れると言われます。逆に、同じような特性や能力の人がただたくさん集まっているだけの組織は、多様性としてうまく機能しない、ということがこれまでの研究成果に出ています。すなわち、一人ひとりが何らかの自分の特性を発揮できることこそ、多様性がうまくいく前提条件ということになります。

 

能力の「十分条件」は千差万別でも、「必要条件」は意外に似ている

では、多様な人々に対して、共通する能力というものはあるのでしょうか。実は、職種一つひとつに関して言えば、その職種で成功するために「十分な」条件というのは、まさに千差万別です。しかし、社会人としてこうした変化の時代に対応していくのに「必要な」条件となる、共通した基礎能力というのは、意外にどの分野の人でも似ています。

 

例えば、野球で成功した人が「野球こそ人生を物語っている」と言いますが、サッカーで成功した人も、ピアニストとして成功した人も、同じようなことを言います。それは、この必要条件の基本というのは、想像以上によく似ているからです。そうすると、我々は次の時代を担う子どもに、まずは「必要条件」を身に付けてもらって、その上で徐々に絞り込んだ選択の先に求められる「十分条件」に自らの力を注いでもらうことが望ましいということになると思います。

 

2000年前の弁論家が説いた「学問的訓練」と「実践的訓練」の必要性

ここでもう一度、古きを訪ねて新しきを知ってみましょう。2000年以上前のローマにキケロという弁論家がいました。この人は、西洋社会では長い間ラテン語の教科書として使われ、後世の生徒たちからは憎まれる結果となった人ですが、古典となるだけに、極めていいことを言っています。

 

例えば、「類まれな輝かしい本性に、ある種の組織的訓練と学問による陶冶が加わったならば、その時こそ素晴らしい特異な才能が開花する」。要するに、その人の基本的な能力に、学校における学問的訓練と組織での実践的訓練の両方を付け加えたとき、人は本来の能力を開花させると言うのです。片方だけではダメで、学校教育と仕事の現場組織での教育、この2つが必要だと指摘しています。これは必要条件ということになります。

 

そこで考えてみますに、学校教育で教えているのは何なのかと言えば、会社や組織から与えられた仕事を個人としてより首尾よく処理できる能力です。「分業と協業」という観点で言えば、「分業」に対処する能力です。例えば文章を書かせても、どこが頭かしっぽかわからないような文章しか書けない人と、理路整然とピシッと書いてくる人がいたとしたら、どちらに仕事を頼むかははっきりしています。あるいは、何回やっても計算違いをする人と、一発で複雑な計算をしっかり処理できる人がいたら、当然処理できる人の方が高い評価を受けます。これらは、それぞれの仕事を処理する上での能力、つまり課された「分業」をしっかり担う能力です。ですから、世の中が高度化すればするほど学校教育も高度化するというのは、個々人の行う「分業」の質が高度化するので、それに向けての学校教育も高度化せざるを得ない、ということになります。より正確に言えば、一人ひとりの能力を高めるために、どんどん高度化、専門化せざるを得なくなっていく、ということです。これが学校教育のすべてではありませんが、一番基本であると思われている役割です。

 

他方、仕事の現場で行う組織訓練というのは、個人がチーム内でしっかり協力してみんなで問題を処理できる能力を育てることです。会社では、一人だけで完結する仕事はまずありません。以前にコンピュータ会社にいた人に、「最近銀行でコンピュータシステムのトラブルがあるようだけど、いったいどれくらいの人数で開発しているの?」と聞きましたら、「まあ、4000~5000人ですね」と言われました。つまり、大きな仕事をしようと思ったら、それほどたくさんの人びとの協業でやらざるを得ません。トマス・アクィナスが言った通り、世の中は「分業と協業」で成り立っており、それがますます複雑化・高度化し、さらに国境を越えたりしているわけです。

 

こうした「協業」の能力というのは、学校でも運動会や学芸会、クラブ活動など、生徒たちに自主的にいろいろな行事や課題と取り組ませることで、ある程度まで身に付けることはできます。しかし、本当に仕事の現場で役に立つレベルになるには学校だけではまだまだ難しいので、会社に入ると協業のための実地訓練を何年か受けて、多くの仕事ではだいたい10年くらい経つと一人前と言われるようになります。

 

分業能力で必要なのは主としてIQ(Intelligence Quotient)です。一方、協業能力で必要なのは、EQ(Emotional Intelligence Quotient)と言われる情緒的な能力、あるいは感情的な部分をうまく制御する能力が大きいです。とんでもないことをしでかした部下に対して「おまえ、何やってんだよ?!」と言ってしまうような人は、EQが足りないのですね。「きみ、これはどうしてこうなったの?説明して。ああ、ちょっとここがおかしいんじゃない?こうすればよかったね」といった、冷静にオブラートで包むような言い方が、必ずしも頭のいい人が得意だとは言えません。つまり、IQが高いからといってEQが高いとは限りません。その逆もしかりで、EQが高いからといってIQが高いとは限りません。この二つは別の類の能力なのです。片方は分業に必要な能力、もう一方は協業に必要な能力、そして分業と協業で社会が成り立っている以上は、その両方の能力に応分に目を向けて身に付けていく必要があるということだと思います。

 

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